直仁親王
直仁親王 | |
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続柄 | 花園天皇皇子/光厳天皇第二皇子 |
全名 | 直仁(なおひと) |
称号 | 皇太弟のち萩原宮 |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
建武3年(1336年)? |
死去 |
応永5年5月14日(1398年6月2日) |
子女 | 周高西堂、任西堂、尊立、全朋親王?[1] |
父親 | 花園天皇/光厳天皇 |
母親 | 正親町実子 |
直仁親王(なおひとしんのう、建武3年〈1336年〉?[2] - 応永5年5月14日〈1398年6月2日〉)は、南北朝時代の持明院統の皇族。花園天皇の皇子で、母は宣光門院正親町実子とされているが、光厳上皇の実子という説が有力である。
北朝崇光天皇の皇太弟に立てられたが、正平一統の際に南朝方によって廃太子され賀名生へ連れ去られた。花園上皇の御所だった「萩原殿」を相続したことから萩原宮(はぎわらみや)とも通称された。
経歴
[編集]本来、父の花園天皇は持明院統においては傍流であり、その皇位は嫡流である後伏見天皇-光厳天皇-崇光天皇の系統に引き継がれるものとされていたため、親王は皇位継承できる立場にはなかった。
ところが、貞和4年(1348年)に元服すると光厳天皇の猶子として皇位継承権が与えられ、その年の10月27日に義兄にあたる崇光天皇の皇太子に立てられた。康永2年4月13日(1343年5月7日)付で崇光天皇に向けて書かれた「光厳院宸翰御置文」(鳩居堂蔵)には、次のように記されている。
興仁親王 儲弐 の位に備へ先 づ畢 んぬ。必ず次第に践祚 の運を受くべし。但し継嗣の儀有るべからず〈若 し男子生まれれば、須 らく必ず釈家に入れ、善 く仏教を学修し、王法を護持し、之 を以って朕の遺恩を謝すべし〉、直仁親王を以って将来の継体に備ふ所なり。子々孫々稟承 し、敢へて遺失すべからず。件 の親王を人皆法皇皇子たりと謂 ふ。然 らず、元是 朕の胤子 なり。去る建武二年五月、未だ胎内〈宣光門院 〉に決せざるの時、春日大明神の告已 に降る有りて、偏に彼 の霊倦 に依 り、出生する所なり。子細は朕並びに母儀女院の外、他人の識 らざる所なり。(中略)亦、天照太神、八幡大菩薩、春日大明神及び吾が国鎮護諸天善神、惣じて三世諸仏、別して曩祖 後白川皇帝以来代々の聖霊幽冥等、宜 しく治罰を加へんこと踵 を廻らすべからず。凡そ継体の器は、国家の重任、社稷 の管轄なり。今定める所、曽 て好悪に非ず、私曲に非ず。観る所有るを以って、遠く斯の言を貽す。後生必ず金のごとく重く、石のごとく堅し。而して軽んじて朕の意を失ふこと莫らんのみ。
康永二年四月十三日〈長講堂に詣で、本願皇帝真影の宝前に、熟 ら祈請の旨有り、即時染筆して之を記す〉太上天皇量仁
光厳上皇は、直仁親王の実の父親であると告白し、崇光天皇の即位は一代限りで、以後は直仁親王の系列に皇位を譲るようにとしたのであった。この置文は長らくその存在が秘され、研究者の間でもそのまま事実として受け入れられていなかった。しかし、多くの神仏の名にかけて誓約する真剣さや、信頼性の高い系図である「田中本帝系図」に直仁親王が光厳院第二皇子とされていることから、この内容は真実だと考えられる[3]。岩佐美代子・深津睦夫・赤松俊秀らは、光厳が大恩ある花園に報いようとしてこうした行動に出たと推測しているが[4][5][6]、家永遵嗣は、宣光門院の兄である正親町公蔭の正室と足利尊氏の正室が姉妹である事実を指摘し、光厳院は直仁の義理の伯父である尊氏に直仁を後見させて北朝(持明院統)を維持しようとしたと主張している[7]。
ところが、観応の擾乱の最中の正平6年(1351年)、室町幕府の征夷大将軍である足利尊氏が南朝の後村上天皇に降伏、これを受けて南朝軍が京都を制圧して北朝方の皇族を拘禁した。11月7日(11月26日)、南朝によって崇光天皇の廃位が宣言された(正平一統)。ただし、南朝側との交渉にあたっていた洞院公賢は南朝の後村上天皇の皇太子として直仁を認めるように求めていたらしく、公賢の日記『園太暦』の同年12月15日(1352年1月2日)条には息子の洞院実夏を光厳上皇の許に派遣して将来の直仁親王への継承実現の願書作成の相談を行い、2日後に執筆している。
だが、正平7年(1352年)閏2月20日(4月5日)の南朝軍の京都占領と同時に北朝の東宮職が停止されており(『公卿補任』)、この時点で廃太子が行われたと考えられている。その翌21日、南朝軍は光厳・光明・崇光の3上皇と廃太子直仁親王を後村上天皇の行宮があった男山八幡宮に幽閉して、やがて尊氏と南朝が再度対立して南朝軍が京都からの撤退を余儀なくされると、彼らは南朝の本拠である大和国吉野に連行され、続いて賀名生(現在の奈良県五條市)の賀名生行宮に幽閉された。
三上皇と直仁は文和3年(1354年)3月に河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。10月になると後村上天皇も金剛寺塔頭摩尼院を行宮とした。だが、文和4年(1355年)には光明上皇のみ京都に返された。
延文2年(1357年)2月になると、光厳上皇、崇光上皇と共に金剛寺より京都に帰還するが、京都では既に崇光天皇の実弟である後光厳天皇が尊氏によって擁立された後であり、崇光天皇と皇太子直仁親王の復位要求は拒絶された。
直仁親王は失意のうちに出家して父の御所であった萩原殿に隠退し、南北朝合一後に薨去した。『本朝皇胤紹運録』には掲載されていないものの、『看聞日記』などの記事によって親王には周高西堂(応永26年8月13日没)と任西堂(永享3年没)の2皇子、尊立と称される1皇女が存在したのが知られている。だが、全員出家しておりその子孫は伝わっていない。
なお、直仁親王の出家によって長講堂領などの持明院統の所領を彼とその子孫が継承する予定は取り消され、光厳法皇は改めて、長講堂領などの主要な所領は崇光上皇に、室町院領は直仁親王に一期分として与えることにしたが、応永元年正月に崇光上皇が、5月に直仁親王が相次いで亡くなった。崇光上皇の崩御後に後小松天皇(後光厳天皇の孫)は栄仁親王(崇光上皇の皇子)から長講堂領などを没収したために紛争になっていたが、足利義満の仲介によって直仁親王亡き後の室町院領を栄仁親王に与えることで事態を収拾させた。ところが、栄仁親王の後を継いだ貞成親王が室町院領以外の直仁親王の所領も室町院領であると称して直仁の皇子・皇女から没収しようとしたことから双方の間で紛争になったが、直仁の子孫が断絶したことによりそのほとんどが伏見宮領に編入された[8]。
系図
[編集]88 後嵯峨天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗尊親王 (鎌倉将軍6) | 【持明院統】 89 後深草天皇 | 【大覚寺統】 90 亀山天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟康親王 (鎌倉将軍7) | 92 伏見天皇 | 久明親王 (鎌倉将軍8) | 91 後宇多天皇 | 恒明親王 〔常盤井宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
93 後伏見天皇 | 95 花園天皇 | 守邦親王 (鎌倉将軍9) | 94 後二条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 邦良親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康仁親王 〔木寺宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【持明院統】 〔北朝〕 | 【大覚寺統】 〔南朝〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 光明天皇 北2 | 97 後村上天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 | 後光厳天皇 北4 | 98 長慶天皇 | 99 後亀山天皇 | 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)栄仁親王 (初代伏見宮) | 後円融天皇 北5 | (不詳) 〔玉川宮家〕 | 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)貞成親王 (後崇光院) | 100 後小松天皇 北6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102 後花園天皇 | 貞常親王 〔伏見宮家〕 | 101 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 湯本文彦『京都府寺誌稿』(京都府、1901年)
- ^ 深津睦夫 『光厳天皇 をさまらぬ世のために身ぞうれはしき』(ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選131〉、2014年)、p.262。
- ^ 岩佐美代子『光厳院御集全釈』(風間書房、2000年)。
- ^ 岩佐美代子『光厳院御集全釈』2000年。
- ^ 深津睦夫 『光厳天皇 をさまらぬ世のために身ぞうれはしき』(ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選131〉、2014年)、pp.138-144。
- ^ 赤松俊秀「光厳天皇の御生涯」『光厳天皇遺芳』1964年
- ^ 家永遵嗣 「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」(桃崎有一郎・山田邦和 編『室町政権の首府構想と京都』〈平安京・京都研究叢書4〉文理閣、2016年)pp.112-116。
- ^ 白根陽子「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-800-1 P219-259.